Screenshot_20241209-083017  美輪 明宏(みわ あきひろ、1935年(昭和10年)5月15日生れ89歳)さんは、シャンソン歌手で、俳優・演出家・タレント・声優・コメンテーター・ナレーターとしても活動している。

 長崎県長崎市出身で本名及び1971年までの芸名は丸山 明宏(まるやま あきひろ)である。
 幼名は臣吾(しんご)。愛称はマルさん。

 海星中学校を経て国立音楽大学附属高校を中退した。
 兄と姉と弟のいる五人兄弟の次男であった。

 丸山 明宏の芸名でシャンソンを歌っていたころ、故三島由紀夫が推していたそうだ。



 40年程前にラジオで美輪明宏さん「ヨイトマケの唄」がリクエストされたのを聞いたことがある。
 彼の独特の歌声と歌詞に、鳥肌が立つほど感動した覚えが有る。


 12月8日Facebookに『東京lineストーリー』さんから以下の投稿があって、その内容に改めて感動したのだ。

「ヨイトマケの唄」
美輪さんは、
ある日手違いで炭鉱町で唄うことになります。
顔を真っ黒にした炭鉱労働者は、安い賃金の中からチケットを買って、聴きに来てくれたことに感動すると同時に、
キラキラの衣裳を着た自分自身が 恥ずかしく思い、
「炭鉱で汗を流す労働者を励ます歌を作ろう!」そう考えたそうです。
曲の発想は、
美輪明宏さんの小学生時代の記憶。
小学生の低学年の頃、
父兄会で 着飾った服を着ている 母親の中に、
野良着にモンペ姿、頭に手ぬぐいをかぶって1人遅れてきた母親がいました 。
背が小さくて痩せて顔が黒く足が不自由な女性でした。
その母親は、学校で一番出来の悪い男の子の母親でした。
鼻を垂らしている息子を見た母親は、鼻を自分の口ですすって、窓からペッとはきます。
それを見た他の母子が、
汚いものを見るような目で見ていた中、
感性の豊かな少年時代の美輪明宏さんは、深い母性を感じ、
それ以降、出来が悪く、いじめられていた男の子をかばい、友達になります。
そんなある日、美輪さんと男の子は、一緒に帰っていた時に、
男の子のお母さんが足を引きずりながら、土方(どかた)の仕事をしている現場に遭遇します。
足の不自由だった母親がよろける度に、
「やめちまえ!」
「ろくでなし!」
「みんな迷惑なんだよ!」
等の声が浴びせられるも、
母親は、
「すいません! すいません!」
と謝っていました。
しかし、息子の姿を見かけると
胸を張って、
大丈夫!心配すんじゃないよ!という顔をしていて、
美輪さんは、そんな友達の母親の気遣いに感激。
実は、友達は、学校でいじめられている事を母親に言い付けようと思っていたんです。
しかし、母親のその姿を見て学校に引き返します。
美輪さんは、「お母さんに言わないでいいの? 」と聞くと、
長崎弁で友達は、
「母ちゃんに心配させとうなかけん」
と言って学校に戻っていったそうです。
しかし、いじめられている事はやがて母親が知る事になります。
母親は、こう言ったといいます。
「喧嘩が強いから偉いんじゃなかとよ。
金持ちだから偉いんじゃなかとよ。
勉強が出来なくても、貧乏でも、関係なかと。
一番偉かとはね、
正直で、
お天道様の前に胸を張って、
誰にも指さされないように一生懸命働いて、
正直に生きる。
それが偉かとよ。
だからお前は偉かと。」
この母親の言葉に 美輪さんは感涙 。
この母子のエピソードが脳裏に焼き付いていて、
『ヨイトマケの唄』の着想になりました。
そして、もう1人 、着想のきっかけとなった人がいます。
それが、両親をロシア兵に目の前で殺された少年 。
その少年は、1人で引き揚げ、廃品回収業をやっている祖父に育てられます。
その少年が中学の時に、祖父が亡くなり、
祖父の遺体をリアカーに積んで、1人で焼き場に持っていて、この先 どうしよう… と途方に暮れていた時、
ふと、殺された父親は技術者である事を思い出し、
「自分も父親のようなエンジニアになろう」と思い、
苦労の末大学に行きます。
美輪さんが知り合った時、
彼は大学生で、銀座で進駐軍の物を屋台で売っていましたが、露天の縄張りでいじめられていました。
美輪さんは、いじめていた人を説得し、大学生を救います。
当時美輪さんは、
シャンソン喫茶『銀巴里』で唄っていた頃で、
大学生は、助けてくれたお礼に、オーデコロンを持って銀巴里に来店し、
美輪さんに、ロシア兵に両親を殺された話、祖父の話、エンジニアになりたい夢を語ります。
美輪さんは、それにいたく感激。
2人はしばらく交流しますが、やがて疎遠となります。
長らく会わずにいたある日、
日本橋の三越を歩いている美輪さんに、
「おい丸さん(当時の芸名丸山から)」と、話し掛ける男と出会います。
ふと見ると、その時の大学生で、ここの現場で働いていると言います。
美輪さんは、「エンジニアになるんじゃなかったの?」と聞くと、
彼は、「エンジニアになるには、釘一本でも、ネジ一本でも、知っとかないと立派なエンジニアには なれないんだよ。だから現場監督からやるんだ~。」と言ったそうです。
美輪さんは、彼の言葉に感動します。
美輪さんは、後に、ついにエンジニアになった彼をお祝いをしようと、
彼とその友達を自宅に招き、
赤飯を炊いて「おめでとう!」と 言ってあげると、
彼は急に泣き出しました。
美輪は、「どうしたの? 」と聞くと、
「今まで生まれてこの方、
自分の為に赤飯を炊いて祝ってくれた人なんか1人もいなかった。」
美輪さんも、そんな彼に泣きながら、
「お父さんもお母さんも、
おじいちゃんも、
天国で、どんなにあなたの事を喜んでいるか。」
と言って、慰め励まします。
この時の彼の嬉しそうな顔も美輪さんの脳裏に焼き付いていて、
『ヨイトマケの唄』を作る時、
この小学生の時の友達とその母親。
さらに、
天涯孤独の中エンジニアになった男性。
この3人のエピソードがオーバーラップして生まれたと語りました。
さらに美輪さんは 、
あのお母さんは、「手ぬぐいを持っているのに何故口で鼻をすすったのか?」
後に、その母親に聞いたそうです。
すると母親は、
「手ぬぐいは商売道具。
手ぬぐいを使ったら、他の姉さん方に失礼だ。」
と言ったそうです。
共に土方で働いている、先輩の女性を気遣う気持ちに、感慨無量になったそうです。
このエピソードを元に『ヨイトマケの唄』が誕生しました。
※「ヨイトマケ」とは、かつて建設機械が普及していなかった時代に、地固めをする際に、重量のある岩を縄で滑車に吊るした槌を、数人掛かりで引張り上げて落とす時の掛け声であり、美輪によれば、滑車の綱を引っ張るときの「ヨイっと巻け」のかけ声を語源とする。

 テレビの出演した時の女装のお爺ちゃん美輪明宏の言葉には、壮絶な彼の人生に根ざした言葉である。
 だから耳に入り易いのだ。

 親父の親の世代の人々は壮絶に日本を復興して来たのだ。





 そう言えば北海道には『よいとまけ』と言うお菓子があるが、この唄とは関係がなさそうだ。










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