今はほぼ死語であるが、昔『世代の断絶』と言う言葉が有った。
この『世代の断絶』の最たるものが、戦争体験世代と戦後に生れた団塊の世代の断絶である。
55年ほど前『戦争を知らない子供たち』と言う歌が有った。
この歌は、北山修氏が作詞し、杉田二郎氏が作曲した楽曲である。
作詞の北山氏も、作曲の杉田氏も終戦後ほぼ1年後に生れた団塊の世代である。
親父が調べたところによると、『戦争を知らない子供たち』は、1970年8月23日に大阪万博でのコンサートで初めて歌われたそうである。
親父は当時8歳で、小学校2年生であったが、当時の大阪万博でフォークコンサートが開催されていったことを初めて知った。
因みに『金太の大冒険』が有名なつボイノリオ氏も、このコンサートに出演したかったらしい。
叶わなかったが…。
『戦争を知らない子供たち』が歌われたころ、世はベトナム戦争(武力衝突開始1960年、終結は1975年)の真っ最中であった。
憲法の制約のある日本政府もアメリカ合衆国の戦争遂行に基地の提供といった形で協力していたである。
日本国内でも、一部の文化人や学生を中心に、『ベトナム平和連合』などの反戦平和運動は盛り上がりを見せていたそうだ。
そのような中で発表されたこの曲は、日本における代表的な反戦歌となった。
この『世代の断絶』の最たるものが、戦争体験世代と戦後に生れた団塊の世代の断絶である。

この歌は、北山修氏が作詞し、杉田二郎氏が作曲した楽曲である。
作詞の北山氏も、作曲の杉田氏も終戦後ほぼ1年後に生れた団塊の世代である。
親父が調べたところによると、『戦争を知らない子供たち』は、1970年8月23日に大阪万博でのコンサートで初めて歌われたそうである。
親父は当時8歳で、小学校2年生であったが、当時の大阪万博でフォークコンサートが開催されていったことを初めて知った。
因みに『金太の大冒険』が有名なつボイノリオ氏も、このコンサートに出演したかったらしい。
叶わなかったが…。
『戦争を知らない子供たち』が歌われたころ、世はベトナム戦争(武力衝突開始1960年、終結は1975年)の真っ最中であった。
憲法の制約のある日本政府もアメリカ合衆国の戦争遂行に基地の提供といった形で協力していたである。
日本国内でも、一部の文化人や学生を中心に、『ベトナム平和連合』などの反戦平和運動は盛り上がりを見せていたそうだ。
そのような中で発表されたこの曲は、日本における代表的な反戦歌となった。
戦争が終わって 僕らは生まれた
戦争を知らずに 僕らは育った
おとなになって 歩きはじめる
平和の歌を くちずさみながら
僕らの名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ
若すぎるからと 許されないなら
髪の毛が長いと 許されないなら
今の私に 残っているのは
涙をこらえて 歌うことだけさ
僕らの名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ
青空が好きで 花びらが好きで
いつでも笑顔の すてきな人なら
誰でも一緒に 歩いてゆこうよ
きれいな夕陽が かがやく小道を
僕らの名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ
戦争を知らない 子供たちさ
当時、戦後に産まれた若者がベトナム戦争反戦運動する姿を戦争体験者の世代は、「戦争を知らない長髪の若造が何を偉そうに言いやがる。」と詰る風だったのを覚えっている。
戦争体験者の世代にとっては、「焼け野原の国土を高度成長期まで復興させたのは自分たちだ。」と言う想いがあったのだろう。
「そのお陰でお前たちは大学にも行けるし、歌えるんだぞ!」
当時の若者(今は78・9歳)の悔しさがこの歌から滲み出ている。
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