第329回メールde法話会が届いた。
よっぽどのご縁を頂いている皆様へ。薬師寺の大谷徹奘です。ご縁を賜り心から感謝します。拙文ですが日々の生活にお役立てくだされば幸いです。
修行を始めた頃、大勢の先輩僧侶がおられました。ある時ふとその中の一人が、挨拶しても全く返してくれないどころか、すれ違っても私の存在がないかのように通り過ぎて行ってしまうことに気づきました。最初は直ぐに相手をしてくれるだろうと軽く考えていましたが、その状況はしばらく続きました。
そこで他の先輩僧侶に相談すると、『彼は若い時に先輩僧侶から1年以上無視されて、ものすごく苦しんだんだよ。それ以来彼は自分が気に入らないと、徹底的に無視するんだ。僕も彼の無視で苦しんだことがあるよ。気にしなくていいよ』と助言をしてくださいました。
その時、「無視」の非情を知り、自分が気に入らないと、人を無視して苦しめ追い詰めるような卑怯者にはならないぞと、心に深く刻みました。合掌
お願いという言葉には、不思議な力がある。
「命令」でもなく、「要求」でもない。
ただ、相手の心の扉をそっとノックする音がする。
「お願いです。無視をしないで。」
たった一言なのに、その向こうには「私はここにいますよ」という、小さな手が見える気がする。
人は忙しい。スマートフォンは鳴るし、テレビはしゃべるし、ニュースは次から次へと流れてくる。
その中で、誰かの声が波間に沈んでしまうことがある。
悪気はない。
ただ、聞こえなかっただけなのかもしれない。
けれど、声をかけた方は違う。
「返事がない」という静けさは、ときどき大声より胸に響く。
親父は脊髄小脳変性症という病気になってから、人との会話が以前にも増してありがたいものになった。
「おはよう」の一言でも、「今日は暑いね」の一言でも、自分が誰かとつながっている証になる。
だから思うのである。
返事とは、言葉を返すことではなく、相手の存在を認めることなのだと。
「お願いです。無視をしないで。」
その言葉は、決してわがままではない。
人は誰でも、自分という物語を誰かに読んでもらいたい主人公なのだから。
今日も親父は、誰かの小さな「お願い」に耳を澄ませていたい。
そして、自分もまた誰かに「ちゃんと聞いているよ」と伝えられる人でありたい。
そんな人が一人増えるだけで、この世の静けさは、少しだけ優しい音色に変わる気がするのである。
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