第331回メールde法話会が届いた。
よっぽどのご縁を頂いている皆様へ。
薬師寺の大谷徹奘です。
ご縁を賜り心から感謝します。
拙文ですが日々の生活にお役立てくだされば幸いです。
とある地方で50席の会場を借りて定期法話会を始めました。
回を重ねるごとに参加者は増え、一年を経る頃には毎回ほぼ満員という状況が続きました。
そこで思い切って200席の会場を借りての法話会を計画しました。
『満席になる』と勝手に思い込み、お世話人に『人集めお願いします』と、気軽にチケットの束を手渡しただけで、それ以降、自分では何の努力もしませんでした。
当日の参加者は60人ほど。200席で60人ではガラガラ状態。
会場全体に冷めた空気が充満していました。
お世話人から『お声はかけたんですよ』の言葉と共に、ほとんど手つかずの参加券の束を返されました。

『自惚れてた』と気が付くも時すでに遅し。
自分が寂しいだけでなく、お世話人、お集まりの方々に嫌な思いをさせてしまい、これ以上の辛いことはありませんでした。
この一件以来、『何事も人任せにせず、可能な限り自分が先頭に立ち努力する』という心構えを持ち実行することを心掛けています。
合掌
人生というものは、なかなかこちらの注文どおりには動いてくれない。
「よし、これでいける」 と満を持して挑んだのに、あっさり空振りすることがある。
そんな時、人間は実に忙しい。
「あいつのせいだ」 「運が悪かった」 「時代が悪い」
と、責任の置き場所を探し始めるのである。
これが不思議なもので、責任の置き場所というのは、いつも自分以外のところに転がっている。
しかし、ある年齢になると、ふと思うのである。
「待てよ。本当にそうだったのか」
努力は十分だったのか。
準備は万全だったのか。 途中で「まあ、このくらいでいいか」と手を抜かなかったか。
そう考え始めると、急に鏡が曇りなく見えてくる。自分の思いどおりにならなかったら、まず「努力が足りなかったのではないか」と反省できる人は強い。
反省というのは、自分を責めることではない。
次に一歩進むための、靴の紐を結び直すようなものだ。
もちろん、世の中には努力してもどうにもならないことはある。
天気も、景気も、人の心も、自分では動かせない。
だが、自分の努力だけは、自分で増やすことができる。
その違いを知ると、腹が立つ回数が少し減る。
年を重ねるとは、勝つ技術を覚えることではなく、負け方を覚えることなのかもしれない。
負けた時に、 「運が悪かった」 ではなく、 「もう少し努力できたな」 と笑って言える心。
そんな心を持てる人は、たとえ思いどおりにならなくても、人生そのものには負けていないのである。
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