第332回メールde法話会が届いた。
よっぽどのご縁を頂いている皆様へ。
薬師寺の大谷徹奘です。
ご縁を賜り心から感謝します。
拙文ですが日々の生活にお役立てくだされば幸いです。
師匠・高田好胤和上の法話は一座90分が基本でした。
ですから法話は90分勤めるものだと勝手に思い込んでいました。
若い頃はその90分間が苦痛でした。
そしてその90分を埋めるのに、自分が学び得たことだけでは足らないので、師匠をはじめとする諸先達の体得されたものを、あたかも自分が体得したかのように話をしていたというのが事実です。
法話の後で『先ほどの○○のことでお聞きしたいのですが』と質問されるのですが、その○○の多くが私の学び得たことではないので、答えに窮したことが幾度もあります。
このような経験を繰り返すうちに、法話の内容を食べ物の評論に喩え、「食べたことの無いものの味の評論は絶対にしない」と自分に誓いました。
また、法話は内容が大切であり、時間の長さに縛られてはならないと、90分にこだわっていた自分を捨てることもできました。
しかし、昨今90分では不足となり、『自分を出し過ぎるな』と言い聞かせています。(笑)
合掌
自分らしく生きる、という言葉は実に気持ちがいい。「自分らしく生きましょう」という言葉は、まるで健康食品の広告のように耳ざわりがいい。
誰も反対しない。
反対したら、いかにも「自分らしくない人」みたいになってしまう。
ところが、世の中には「自分らしく生きる」どころではない出来事がある。
令和8年熊本震災、能登・石川震災、東北大震災。
ニュースに映るのは、家を失い、家族を案じ、水や食料を求めて列に並ぶ人たちである。
あの光景を見るたびに思う。
「自分らしく生きる」とは、いったい何なのだろう。
朝は好きなコーヒーを飲み、昼は好きな店へ行き、夜は好きな本を読む。そんな毎日があるから、「自分らしさ」は育つのかもしれない。
しかし、大地が揺れ、水道が止まり、電気もガスもない避難所では、
「今日は自分らしく過ごそう」などと言っていられない。
まずは命を守ること。
次は家族を守ること。
そして明日を迎えること。
その三つだけで一日が終わる。
それでも不思議なことに、大災害の報道を見ると、人は「自分らしさ」を完全に失ってはいない。
炊き出しで黙々とおにぎりを握る人がいる。
避難所で子どもを笑わせようと手品をする人がいる。
泥だらけの家を片づけながら、「またここで暮らすよ」と笑う人がいる。
あれもまた、その人らしさなのだろう。
自分らしさとは、好きな趣味や贅沢な時間だけではない。
苦しいときに、どう振る舞うか。
絶望の中で、誰に手を差し伸べるか。
そこに、その人の本当の姿が現れるのではないかと思う。
もちろん、親父なら避難所で最初に「新聞はありませんか」と探すかもしれない。
読むためではない。
丸めて枕にしたり、窓を拭いたり、濡れた靴を乾かしたりするためである。
災害時の新聞は、情報媒体から生活用品へと見事に転職する。
新聞だって、自分らしく活きているのである。
結局、「自分らしく生きる」というのは、平穏な日常だけの話ではないのかもしれない。
人生は、晴れの日ばかりではない。
豪雨もあれば地震もある。
その中で泣き、笑い、誰かを助け、また助けられながら一歩ずつ前へ進む。
案外それが、人間のいちばん「自分らしい」生き方なのではないか。
そう思うのである。
ところで8月1日から別宅『爺の風は強く吹いている』を開設しました。
併せてお楽しみください。
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