人間というものは、医者から「そろそろ考えてください」と言われる言葉が大の苦手である。
 「塩分を控えてください」 「お酒を少し減らしてください」 「体重を落としてください」
 どれも聞いた瞬間、耳が自動的にシャッターを閉める。

 ところが、脊髄小脳変性症になってから耳に飛び込んできた言葉は、なかなか重量級だった。
 「運転は、症状を見ながら考えましょう。」
 これには耳のシャッターが閉まるどころか、ガラガラと戸袋ごと外れた。

 親父はスバル・レヴォーグに乗っている。
 アイサイトXという、なんとも未来少年コナンみたいな名前の装置が付いている。
 前の車に近づけばブレーキを掛けてくれるし、高速道路では車線の真ん中を走ろうとしてくれる。
 まるで助手席に真面目な教官が座っているようだ。

 親父は密かに思っていた。
 「これなら百歳まで運転できるんじゃないか。」
 文明の力への期待というのは、実に図々しい。

 そこでChatGPTに尋ねた。
 「脊髄小脳変性症は、どんな症状が出たら運転をやめた方がいい?」
 返事はやさしかったが、内容は容赦なかった。

 歩いてふらつく。
 転ぶことが増える。
 ブレーキとアクセルの踏み替えが遅れる。
 車線をまっすぐ保てない。 反応が遅れる。

 つまり、親父の日常生活の通知表みたいなものが並んでいた。
 親父は思わず、自分の歩く姿を思い浮かべた。

 デンパークで階段を下りて転んだことが二度ある。
 左へ少し傾く日もある。
 外出するときは杖を持つ。

 「あれ? これ、私のことじゃないか。」
 まるで健康診断の結果を読み上げられている気分である。

Copilot_20260829_195318 しかし、ここでアイサイトXに助けを求めても、「市川さん、今日は左へ傾いています」とは言ってくれない。
 ブレーキは掛けてくれても、右足をペダルへ運ぶのは親父である。
 ハンドルを握る手が震えたら、アイサイトは手を添えてはくれない。

 考えてみれば、アイサイトは「安全装置」であって、「運転代行」ではない。
 親父はこの違いを、杖で考えた。

 杖は歩くのを助けてくれる。
 でも杖が歩いてくれるわけではない。

 アイサイトも同じだ。
 車を助けてくれる。
 でも運転してくれるわけではない。

 便利な機械ほど、人間は「全部やってくれる」と思いたがる。
 電子レンジは料理人ではないし、炊飯器は米を研いではくれない。

 そしてアイサイトも、親父の運動失調までは治してくれないのである。
 少し悔しい。
 だが、悔しいと思えるうちは、まだ自分で判断しようとしている証拠なのかもしれない。

 私は決めた。
 アイサイトXを信じる前に、自分の足を点検しよう。
 今日はまっすぐ歩けるか。
 急ブレーキを踏めるか。
 疲れるとふらつかないか。

 車検は二年に一度だが、身体の車検は毎日である。
 レヴォーグは静かにガレージで待っている。

 その横で親父は、杖を一本握りしめ、「今日の運転免許証は、この二本足が更新してくれるのだ」と、少しだけ神妙な顔になったのである。




 8月1日に別宅『爺の風は強く吹いている』を開設しました。
 併せてお楽しみください。





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