第338回メールde法話会が届いた。
よっぽどのご縁を頂いている皆様へ。薬師寺の大谷徹奘です。ご縁を賜り心から感謝します。拙文ですが日々の生活にお役立てくだされば幸いです。
「まっしぐら」という言葉が好きです。わき目もふらず目的に向かって爆走する、そんなイメージを持っています。
この他にも「まっすぐ」、「まっこうから」などの「まっ」から始まる言葉も好んで使って来ました。ある時「真直ぐ」や「真っ向から」は漢字で書けるのですが、「まっしぐら」はどう書くのだろうかと 疑問に思い辞書を引くと、「驀地」と示されていました。特に「驀」は一度も見たことも、使ったこともない字だった上に、「地」を「しぐら」と読むことは習わない限り一生無理だと思いました。
『そーなんだ』と、何か宝物を発見したような朗笑と、疑問を持たずに使って来た自分に対する苦笑が思わず重なりました。
漢字は書けませんでしたが、「まっしぐら」が私の生きる指針の一つであることは間違いありません。合掌
私は「まっしぐら」という言葉が好きである。
好きな言葉を三つ挙げろと言われたら、「いただきます」「おかわり」「まっしぐら」である。
ずいぶん食いしん坊な人生設計になってしまったが、そこはご愛敬だ。
ずいぶん食いしん坊な人生設計になってしまったが、そこはご愛敬だ。
犬が散歩中にハトを見つけると、リードを引っ張ってまっしぐら。
子どもがアイス売り場を見つけると、親を置いてまっしぐら。
私はスーパーであんパン売り場を見つけると、妻の視線を感じながらまっしぐら。
子どもがアイス売り場を見つけると、親を置いてまっしぐら。
私はスーパーであんパン売り場を見つけると、妻の視線を感じながらまっしぐら。
この言葉には「わき目もふらず」という副詞がよく似合う。
だから私は「まっすぐ」とか「真っ向から」とか、「まっ」が付く言葉も好きだ。
「まっ」という音には、変な回り道を許さない潔さがある。
人生、たまには「ちょっと寄り道」が楽しいこともあるが、「まっ」は寄らない。
「一直線」である。
「まっ」という音には、変な回り道を許さない潔さがある。
人生、たまには「ちょっと寄り道」が楽しいこともあるが、「まっ」は寄らない。
「一直線」である。
第338回メールde法話会で漢字で書く「まっしぐら」知り、椅子から三センチほど浮いた。
「驀地」
……誰?
「驀」である。
人生60数年、この字に一度も会ったことがない。
まるで親戚の法事で突然紹介される遠い親類である。
まるで親戚の法事で突然紹介される遠い親類である。
しかも「地」を「しぐら」と読むそうである。
これは反則ではないか。
「ち」と読むものを、急に「しぐら」と読めと言われても、小学校一年生なら泣く。
64歳の親父でも泣きそうになった。
64歳の親父でも泣きそうになった。
大谷徹奘さんによれば本来は「ばくち」と読み、「まっしぐら」は当て字や熟語訓に近い読み方らしい。
「へぇーっ!」
思わず声が出た。
宝物を掘り当てたような笑いと、「何十年も平気で使っていたくせに知らなかったのか」という苦笑が一緒に出てきた。
漢字というものは面白い。
知っているつもりの言葉の後ろに、知らない世界が隠れている。
私は最近、「脊髄小脳変性症」という病気と付き合っている。
歩く姿は少しふらつく。右に揺れ、左に揺れ、ときどき本人より周りの人のほうが心配そうな顔をする。
歩く姿は少しふらつく。右に揺れ、左に揺れ、ときどき本人より周りの人のほうが心配そうな顔をする。
見た目だけなら、とても「まっしぐら」とは言えない歩き方である。
けれど不思議なもので、足は揺れても気持ちは揺れない日がある。
デンパークの花と緑のウォーキングルートも、ららぽーと安城の長い通路も、私は今日も歩く。
速くはない。
爆走どころか、ゆっくり、ゆっくりである。
速くはない。
爆走どころか、ゆっくり、ゆっくりである。
それでも目的は一つ。
「自分の足で歩き続けたい。」
その思いだけは、驀地である。
人生の「まっしぐら」は、速さではないらしい。
横道にそれそうになっても、何度でも進む方向を正面に戻すこと。
その積み重ねが「まっしぐら」なのだと、この年になってようやく分かった。
その積み重ねが「まっしぐら」なのだと、この年になってようやく分かった。
「驀」という見たこともない字を覚えた日、私は一つ賢くなった。
もっとも、その翌日には漢字を忘れてしまい、「あの難しい馬みたいな字、何だっけ?」と妻に聞く未来も十分ありそうである。


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